第45回定期演奏会パンフレット
先日は、創立25周年記念 第45回定期演奏会にご来場いただき、誠にありがとうございました!
1,200人超のお客様にご来場いただき、団員一同、大変嬉しく思っております。
しかしながら、予想を上回る多くのお客様にご来場いただいたことにより、
用意していた配布物を全て配り切ってしまい、
一部のお客様にパンフレットやアンケートをお渡しすることができませんでした。
せっかくご来場いただいたなか、大変申し訳ございません。
そこで、当日配布させていただいたパンフレットの一部を公開いたします!
パンフレットをお受け取りいただけなかったお客様にはもちろん、
当日お読みになられたお客様にも再度、お楽しみいただけますと幸いです♪
【団長挨拶】団長: 髙岡 昭平
本日は紫苑交響楽団の創立25周年記念演奏会にご来場いただき、誠にありがとうございます。
2000年に設立されたので周年が非常に分かり易いのが紫苑の良いところの一つだなと勝手に思っております。
さて2000年といえば「IT革命」と言われ、一般家庭にパソコンや携帯電話が普及してきたくらいの時期だったことを思えば、社会の姿はこの25年で様変わりしました。一方で音楽を含む文化芸術・エンタメについては、良い意味でそんなに変わっていない気がします。例えば2000年のヒット曲の一つが『TSUNAMI』ですが、(私の世代的贔屓目もありますが)全く古びておらず、今年のヒット曲と並べても違和感はないなと個人的には感じます。人間の感性が本質的に変わらない以上、流行り廃りはあれども根底の傾向はそうそう変わらないものなのだろうと思います。
ことクラシックにおいては何百年も前の作品が愛好され続けているわけで、芸術のスケールでは25年など一瞬でしょう。しかし人間のスケールでは25年という期間はかなりの重みを持ちます。その間に紫苑交響楽団のメンバーも大きく入れ替わっていますが、その時々のメンバーが今の自分達に出来ることを追究してきた積み重ねが今に繋がっているのだろうと思います。
今日の演奏会が、これまでの歩みを支えてくださった方々への感謝と共に結実し、またこれからの紫苑へと繋がっていくことを願っております。どうぞ心ゆくまでお楽しみください。
【曲紹介】
ラヴェル:古風なメヌエット
モーリス・ラヴェル(1875-1937)は、20世紀前半のフランスを代表する作曲家であり、ドビュッシーと並び、フランス近代音楽の巨匠の1人である。「ボレロ」「ラ・ヴァルス」「ダフニスとクロエ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」と数々の名曲を遺し、また「展覧会の絵」の編曲など卓越した管弦楽法で「管弦楽の魔術師」とも呼ばれた作曲家である。
1895年、彼が20歳の学生だった時、ピアノ曲として発表したデビュー曲がこの「古風なメヌエット」であり、仏語の“antique”(とても古い、古代の)」というこの言葉、19世紀迄はギリシャ、ローマ時代のものに対して使っていた。元来18世紀の古典舞曲である「メヌエット」に、この形容詞を付けるセンスにユニークな味わい深さと彼の才気が感じられる。「古風なメヌエット」のオーケストラ編曲が行われたのは、発表から34年も経った1929年、54歳の時で、故郷のバスク(スペイン国境に近いフランス南西部)に夏・秋と滞在した年だった。この時、「展覧会の絵」にも「ボレロ」にも改定が加えられた。
この曲は、3拍子の優雅な舞曲となっており、メヌエット→トリオ→メヌエットという、A→B→Aの古典派時代の形式に倣って作曲されている。A部はMaestoso(荘厳に)で、冒頭からシンコペーションを多用した切れのあるリズムによって曲が進行する。B部は、明るい長調に転じて、クラリネットやオーボエ、ホルンのメロディーを中心にファゴットが絶妙に絡む木管アンサンブルが奏でられる。また、オーケストラ版ではピアノの鍵盤上で描かれた繊細な音のパレットが、オーケストラの豊かな音色を得て、さらに色彩感を増した。
初演は1930年のパリで、ラヴェル自身がラムルー管弦楽団を指揮した。34年も経っての管弦楽化には自身のデビュー作品への特別な愛着が感じられる。これ以降の彼の作品は、2曲のピアノ協奏曲とオケ伴奏による歌曲集「ドゥルシネア姫に心寄せるドンキホーテ」のみである。作曲家人生の「最初と最後」を飾る、彼本人にとっても記念碑的な愛すべき作品なのであった。
(文責 肩にちっちゃいジープのせてんのかい)
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
■曲の誕生
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840年生 - 1893年没)にとって、1877年から1878年(37歳~38歳頃)は激動の年でした。
大富豪、フォン・メック氏の未亡人から年金として資金援助を受けることになり生活は安定したものの、音楽学校の生徒であったアントニーナ・ミリューコヴァからの求愛に負けてスタートした結婚生活は、すぐに破綻。チャイコフスキーは入水自殺を計るまで精神的に追い詰められ、ついには新居から逃げだし、離婚。そして弟と共にスイス・イタリアへ心の療養の旅に出かけたのです。
この激動の私生活の間に作曲・初演されたのは、彼の中期の代表作群、「交響曲第4番(作品36)」、バレエ「白鳥の湖」(作品20)、オペラ「エフゲニー・オネーギン」(作品24)等々。驚異的な仕事内容でした。
その旅先を訪ねてきた友人のヴァイオリニストが携えていた、ラロの「スペイン交響曲」(内容はヴァイオリン協奏曲であり、数年前に名手サラサーテによる初演が大成功を収めていました)の譜面に興味を抱いたチャイコフスキーは、この譜面を研究、一ヶ月足らずで一気に書き上げたのが、この「ヴァイオリン協奏曲」(1878年)と言われています。
■初演の失敗~再評価
完成したヴァイオリン協奏曲は、パトロンであるフォン・メック夫人からの賞賛を得られず、さらにロシアのヴァイオリンの大家(そしてハイフェッツ以下現代ヴァイオリン奏者の源流となる一門を築いた名教授)レオポルト・アウアーからは「演奏不可能」と初演を断られてしまいました。
とはいえ、ロシア人ヴァイオリニストのアドルフ・ブロツキーの独奏、ハンス・リヒター指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団という豪華な奏者による演奏で、この曲は 1881 年に初演されました。
ところが、どうも初演運(?) の無いチャイコフスキー。この曲も初演時には指揮者、オーケストラから理解してもらえないまま演奏されてしまい、毒舌で有名な評論家エドゥアルト・ハンスリックから強い民族色への拒否感から酷評をもらってしまいました(ただ、構成等の美しさは認める評だったようです)。
これにひるまなかったのが、初演で独奏を務めたブロツキー。機会がある度にこの曲を取り上げたおかげで、曲の真価は徐々に知られるようになりました。ついには初演を拒否したアウアーも態度を改め、自分で演奏するだけでなく門下のハイフェッツ、エルマンら高弟にこの曲を伝え、現在ではヴァイオリン協奏曲の中でも五本の指に入る人気を得ています。
この曲は、献身的な普及活動をしたブロツキーに捧げられました。
□第1楽章 アレグロ・モデラート − モデラート・アッサイ ニ長調
ソナタ形式。オーケストラのみで始まる序奏部に続き、独奏ヴァイオリンにより提示部に入ります。古典派の協奏曲とは異なり、提示部の最初から独奏ヴァイオリンが活躍し、提示部の繰り返しはありません。展開部はオーケストラの最強奏による第 1 主題で始まり、最後にはヴァイオリン独奏(カデンツァ)が入ります。カデンツァはチャイコフスキーが譜面に書いており、通常はこれをそのまま演奏します。カデンツァの後再現部となり、コーダを経て一楽章を閉じます。
□第2楽章 カンツォネッタ アンダンテ ト短調
複合三部形式。管楽器だけによる序奏に続いて独奏ヴァイオリンが愁いに満ちた美しい旋律を演奏します。中間部は少し明るく、動きがあるものになっています。最初の旋律が戻ってきたあと、管弦楽だけによる橋渡しの楽節を経て、曲は切れ目なく第3楽章へと続きます。
□第3楽章 アレグロ・ヴィヴァチッシモ ニ長調
ロンドソナタ形式。オーケストラによる激しい序奏の後、独奏ヴァイオリンがロシアの民族舞曲トレパークに基づくニ長調の第 1 主題(ロンド主題)を演奏します。この主題が他の主題と交互に登場して、曲は大きく盛り上がって大団円を迎えます。
このロンド主題が実はいわく付きで、前述の巨匠アウアーが曲の良さを再認識して演奏しはじめた際、主題の一部をカット(省略)して演奏し、さらにその「カット版」を高名な弟子達に伝えたために、昭和後期くらいまではカット版での演奏や録音が主流だったのです。最近でこそノーカット版で演奏することも多くなりましたが、まだまだカット版での演奏にも出会うことがあります。本日はどちらの版での演奏になりますでしょうか。(カット版は、ロンド主題が 12小節短く、それ以外にも若干のカットがあります)
(文責:まろさんカット版、玉井さんノーカット、豊嶋さんカット版を経て4回目の演奏
を楽しみにしているおっさん)
[参考文献]
Wikipedia:チャイコフスキー関連の項
音楽之友社スコア解説(堀内敬三)
ブライトコプフ社刊パート譜(新旧両版)
マーラー:交響曲第1番ニ長調
グスタフ•マーラー(1860〜1911)はモラヴィア(現チェコ共和国の東部)のカリシュト村でユダヤ人夫婦の14人の子供*の第2子として生まれました。父ベルンハルトは読書家で勤勉な荷馬車屋、母マリーは裕福な貿易商の娘でした。*兄と弟6人は乳幼児期に死亡
皇帝フランツ•ヨーゼフ1世が発した十月勅書(1860)でユダヤ人の居住の自由が認められ、一家はモラヴィア第2の都市イグナウに移って酒造業で成功し、両親は子供たちの将来を考えて教育に力を入れます。
グスタフは12歳でリストの難曲を式典で演奏するほどの腕前。その才能に驚嘆した音楽愛好家シュヴァルツに父親が説得されて15歳でウィーン音楽院に入学、ピアノ専攻で1等を2度受賞します。
またF.クレンとR.フックスに作曲を学び、ウィーン大学でブルックナーの和声学も受講して作曲家を志すのですが、在学中に作曲した“嘆きの歌”はベートーヴェン賞に落選し、指揮者となります。
【欧州歌劇場の最高峰へ】
1881年にライバッハ市立劇場の楽長となり、その後カッセル王立劇場第2楽長(’83)、プラハのドイツ領邦劇場第2楽長(’85)、ライプツィヒ市立劇場第2楽長(’86)、ブダペストのハンガリー王立劇場監督(’88)、ハンブルク市立劇場首席楽長(’91)とオペラ指揮者のキャリアを重ね、’97年にウィーン宮廷歌劇場の監督に就任しました(37歳)。
この間ライプツィヒではゲヴァントハウス管弦楽団に客演したR.シュトラウスと意気投合しライバルにして生涯の友となります。
またブダペストでは“ドン•ジョヴァンニ”でブラームスを、ハンブルクでは“エウゲニ•オネーギン”のドイツ初演でチャイコフスキーを魅了し2大作曲家の知遇を得ます。
さらに尊敬していた名指揮者ビューローがハンブルクでマーラーの指揮する“ジークフリート”を聴いて感嘆し親交を深めました。
【田園、幻想交響曲、ライン、そして】
マーラーは1885年に自作の歌詞で連作歌曲“さすらう若人の歌”(ピアノ版)を完成しました(25歳)。ソプラノ歌手ヨハンナ•リヒターへの失恋と愛惜が歌われます。
このころウェーバー大尉から祖父*の遺稿“三人のピント”の補筆を依頼され'88年の初演で成功を収めます。*“魔弾の射手”の作者
時間をかけて作曲を進めていた巨大編成で5楽章の交響曲は、大尉夫人マリオンとの悲恋を経て完成、標題がない「二部からなる交響詩」として’89年11月20日にブダペストで初演。’93年には標題「“Titan[巨人]”/交響曲形式による音詩」と各楽章にタイトルを付けてハンブルクで演奏、翌年ワイマールで再演します。
そして全曲を改訂し第2楽章“ブルーミネ”をカット、標題とタイトルを削除した「大オーケストラのための交響曲ニ長調」を’96年3月16日にベルリン•フィルと初演*(36歳)、’99年に「交響曲第1番ニ長調」として出版しました。*‘葬礼’と‘さすらう若人の歌’(オーケストラ版)も同時初演
“Titan”はマーラーが愛読したジャン•パウル(1763〜1825)の代表作で、王位継承権者だった若者が失恋や挫折をのりこえ成長していく大長編小説。“ブルーミネ”も花の女神を表すパウルの造語です。友人の勧めでつけた標題とタイトルがかえって作品の理解を妨げると考え直したのでした。
【さすらう若人の交響曲】
第1楽章 ニ長調 (16分)
序奏:ゆっくりと,引きずるように/
主部:冒頭-とても快く
カッコウの鳴き声に続きチェロが軽やかに「朝の野辺を歩けば草の上に露が*」と歌う。
*Ging heut morgen übers Feld...
‘さすらう若人の歌’第2曲の冒頭
さまざまな歌の旋律が呼応しあって展開し、最後に真のテーマが鳴り響く。
第2楽章 イ長調 (9分)
力強く躍動して,しかし急がずに/
トリオ:とてもくつろいで
低弦で弾むレントラー風のスケルツォ。
トリオは夢見心地で踊るワルツの如し。
第3楽章 ニ短調 (11分)
厳粛に重々しく,引きずることなく
コントラバスが嘆き、オーボエとトランペットが舞う村の楽隊の葬送音楽。
そして弦が「リンデンバウム(菩提樹)が下で眠る僕に雪のように花びらを降らせた*」と優しく歌う。
*Unter dem Lindenbaum,Der hat seine
Blüten über mich geschneit...
‘さすらう若人の歌’第4曲より
第4楽章 ヘ短調 (20分)
嵐のような激動/エネルギッシュに
暴風雨がおさまると“ブルーミネ”を回想する甘く切ない憧れの旋律を弦が歌う。
再び嵐が荒れ狂うが頂点で二長調の行進曲が高らかに鳴り響き、静まると憧れをチェロが歌いはじめる。
ヴィオラの警句で緊張が高まるが、ファンファーレとともに勝利の行進へ。
輝かしき総奏から突き抜けるホルンの咆哮、煌めくトランペット、ティンパニの連打で歓喜のうちに完結。
(文責:antonin104)
[参考文献]
マイケル•ケネディ:グスタフ•マーラー(1974)
前島良雄:マーラー/輝かしい日々と断ち切られた未来(2011)
中川右介:指揮者マーラー(2012)